アラスカに暮らす

すぐそばにヘラジカが 〜アラスカに暮らす(65)〜

2012年06月18日

アラスカに暮らす(65)

 屋根をたたく雨の音で目が覚めた。「寝袋に入る時には夕日が差して快晴だったはずなのに」。一雨ごとに森の緑は濃くなるというが、山の天気は変わりやすいということか。

 うつらうつらしている間に雨は上がり、窓からは青白い霧が立ち込めた森が見えた。昔、確かにこんな情景に出合った。あれは学生時代、ワンダーフォーゲル部で谷川岳に登った時のことだ。僕たちはラジオの気象通報を聴きながら天気図を描いていた。

 夏山の激しい夕立がやんだ後で、森はむせるような湿気を帯びた深い霧に包まれていた。気象通報が終わると、耳になじんだ旋律が静かに流れてきた。ソプラノ歌手、アンナ・モッフォが歌うラフマニノフ作曲の「ヴォカリーズ」だ。それは、中学、高校と聴き続けていた深夜のFM番組のテーマ曲だった。哀愁漂う声が霧と溶け合い、見知らぬ異国の人里離れた森に幽閉されてしまったかのような独特な雰囲気を醸し出していた−。

 「さて、起きてコーヒーでも入れよう」。寝袋から抜け出し、ジーンズをはいて表に出た。霧がゆっくりと谷の方へと流れていく。僕は雲の上にいるような気分で森の際に立ち、薄日が差し始めた空を見上げながら勢いよく小水を放った。

 その時、まき小屋の横で僕の背の丈ほどの何かが動いた。むこうもこちらに気付いたようだ。慌てて駆け出したそれはヘラジカだった。ヘラジカは20メートルほど先で立ち止まると、辺りを気にしながらも、足元の草を食べ始めた。

 静かに近づいた。小柄な若いヘラジカだ。互いの視線が重なり緊張が走る。それから、不思議と警戒を解いたような時間が訪れた。ヘラジカは首を垂れると、また草を食べだした。

おいしそうに草を食べるヘラジカ。森の中では、静かな朝の時間が流れていた=米国アラスカ州フェアバンクス郊外の自宅でおいしそうに草を食べるヘラジカ。森の中では、静かな朝の時間が流れていた=米国アラスカ州フェアバンクス郊外の自宅で

プロフィール

河内牧栄(かわうち・まきえい):ネーチャーガイド兼写真家

1966年、岐阜県各務原市生まれ。日本大芸術学部卒業後、大手出版社に勤務。退社後、30代で一人旅をしたアラスカの大自然に魅せられ、2003年に移住した。ネーチャーガイド兼写真家。アラスカ州フェアバンクスに妻(48)と長男(7)の3人暮らし。

ホームページ:「ネイチャーイメージ」

※「アラスカに暮らす」は中日新聞朝刊に毎週月曜日に連載されています。

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